ひきこもり科学館

つれづれなるままに、ひきこもり、硯にむかひて

「将来の夢」って、別に職業・仕事じゃなくてもいいよね|もっと、多様な生き方があってもいいのでは?

「将来の夢」って、ありますよね。あの、幼稚園児や小学生のころには、必ずと言っていいほど訊かれるアレです。それで、皆さんは当時どのように答えたでしょうか?サッカー選手でしょうか、それともケーキ屋さんでしょうか。もしかしたら、堅実に公務員かもしれませんね。まぁ、そんな幼いころに何となく口にしたことが現実になった人なんて、そうそういないでしょうから、どうでもいいことではありますが…。ただ、「将来の夢」ってどうも、何かしらの職業であることが暗黙の了解、みたいになっていますよね。例えば、ムーミン谷のスナフキンみたいに、自由気ままに旅をしたい、という人はいませんし…。でも、それって、どうなんでしょう…?ちょっと、視野が狭すぎるのではないでしょうか。一度、立ち止まって考えてみました。

 

①  「将来の夢」は、職業の外にあってもいいのでは?

そもそも「将来の夢」って、何かの職業でなければならないのでしょうか?いいえ、そんなことはないと思います。「将来の夢」は、職業の外にあってもいいと思います。例えば、こんな「将来の夢」はどうでしょうか。

  • 美人になりたい
  • もっと賢くなりたい
  • 毎日、美味しいものを食べていたい etc

こういうのも、あってもいいとは思いませんか?むしろ、こちらの方が“夢がある”ように感じませんか。…感じますよね。別に、これじゃダメだ!なんてことはないと思います。むしろ、「将来の夢」を職業に限定することの方がナンセンスではないでしょうか?それに、誰しも皆がバリバリ仕事をしたい訳でもありませんし(私もそうです)。

 

②  背景に「職業第一観」があるのでは?

そもそも何で「将来の夢」って、職業に限定されてしまったのですかね。「夢」は職業の外でも見られると思うのですがね。何で、こんな風になってしまったのでしょう…。これは、あくまで私見ですが、背景に「職業第一観」があるのではないでしょうか。

 

「職業第一観」というのは、働くことが当たり前、人生の大部分は仕事、のような観念のことです。何だか古いなぁ~、頭が固いなぁ~とは思いますが、学校教育はこういう観念を植え付けがちである気がします。私たちの間で、知らず知らずのうちに浸透していく「隠れたカリキュラム」(*)の一種でしょうか。「将来の夢」→“将来、どの職業に就きたいか”となるのも、このあたりに理由があるような気がします。

 

*隠れたカリキュラム:学校のフォーマルなカリキュラムにはない、知識、行動の様式や性向、意識やメンタリティが、意図しないままに教師や仲間の生徒たちから、教えられていくこと。社会学や教育社会学の専門用語。

(出典:Wikipedia)

 

③  もっと、多様な生き方があってもいいのでは?

別に、何かの職業に全力で取り組む人を批判するつもりはありません(むしろ、素晴らしいと思います)。しかし、もっと多様な生き方があっても、いいのではないでしょうか?

 

当然、仕事よりも他のことを優先する生き方もあるでしょう。仕事の外に夢をみる生き方もあるでしょう。例えば、専業主婦(主夫)なんかはそうですね。これも立派な生き方です。フリーターだって、立派な生き方の1つです。ほどほどに働いて、趣味に生きるのも悪くないと思いますよ。それこそ、ムーミン谷のスナフキンみたいに、自由気ままに旅をする生き方もある訳です。やりたいことは人それぞれ、夢をみることは人それぞれ、ですから、それを特定の職業に当てはめるのは無理がある、というものです。もっと多様な生き方があってもいい、こうした認識が世に広まっていけば、「将来の夢」なるものも変わっていくのではないでしょうか…。

 

それでは、今回はこのへんで。

 

(参考文献)