ひきこもり科学館

つれづれなるままに、ひきこもり、硯にむかひて

ブログで言いたいことを言わないで、どこで言うんだよ(百田尚樹氏『大放言』より)

f:id:neetland:20190120120936j:plain

インターネット全盛のこの時代、誰もがネットを通じて「発信する」ことが当たり前になってきた。今日も、各種サイトやブログ、SNSには、さまざまなメッセージが飛び交っている。多種多様で玉石混交な、さまざまな情報が飛び交っている。それらネット空間上の言論は、私たちの重要な情報源になるとともに、日々を彩る楽しみにもなっていると言えよう。

しかし、こうしたネット言論空間の拡大とともに、いくつか新たな問題も生じている。具体的には、デマや風評被害、情報漏えい、ネットいじめ、炎上騒ぎなどなど…。ネット空間において、さまざまな言論問題が頻発しているのだ。実際、芸能人のブログなど、そうだろう(しょっちゅう炎上しているし)。

そういう事情もあって、近年はネット言論空間にも委縮する向きがある。委縮モードになってきている。今、ブログにしても、twitterにしても、多くの人が炎上を気にするようになった。あれこれ、何を言うにしても、「炎上しないかな」「誰かに怒られないかな」といちいち気にするようになった。それで、言いたいことを引っ込めるようになってきている。たとえ、それが本当に言いたいこと、言うべきことであっても…。引っ込めてしまうのだ。

もちろん、ネット上だからといって、何を言ってもいい訳ではない。むやみに人を傷つけたり、ウソをまき散らしたりしてもいい訳ではない。しかし、(いるのか、いないのか分からない)誰かに気を遣いすぎて、言いたいことも言えなくなるのはいかがなものか。何の引っかかりもない、空気のようなことしか言えなくなるのはいかがなものか。以下は、百田尚樹氏の『大放言』からの引用である。少し長いが、ぜひ読んでもらいたい。

 かつて放言は一つの文化だった。

 放言は、常識に対するアンチテーゼであり、現状に対する問題提起であり、過激な提言であった。またしばしば毒舌的であり、ユーモラスで知的な面もあった。

 過去には多くの文化人や芸人や作家たちが様々な放言を繰り返し、大衆はそれらに反発しつつも、一方でそれを楽しんで受け入れた。世の中全体に成熟した大人の文化の香りがあった。文豪、志賀直哉は戦後、「日本語を廃止してフランス語を公用語にすべし」と真剣に主張したし、スーパースター長嶋茂雄は昭和三十年代に「もし社会党が政権を取ったら野球ができなくなる」と大真面目に語った。パンツの中に隠していたコカインを発見されて起訴された超大物の役者の勝新太郎は「知らない間に入っていた。もうパンツは穿かない」と言った。いずれもヒステリックな人は目くじらをたてて怒ったが、大半の人はむしろ稚気あふれる言葉として笑った。

 しかしいつのまにか社会はそうした寛容さを失った。ちょっとした言葉遣いのミス、あるいは言い間違い、行き過ぎた表現といったものに対して、過剰に反応し、「その言い方は許さない!」「責任を取らせる!」と、メディアや世論が一斉攻撃するような風潮が出来上がってしまった。

 (中略)

 その結果、多くの人が八方美人的な発言しかしなくなった。誰も傷つけない毒にも薬にもならない大人のセリフしか言わなくなったのだ。テレビに出てくるコメンテーターとよばれる人たちのクソ面白くないセリフはどうだ。

 (中略)

 我々は成熟した自由な社会に生きている。言論の自由のない共産国家で生活しているのではない。誰もが自由に発言できる社会のはずだ。「問答無用」で発言を封じるのはやめにしようではないか。

 (中略)

 それにどこからも突っ込まれない意見や、誰からも文句の出ない考えというものは、実は何も言っていないと同じだ。鋭い意見と暴論は実は紙一重なのである。

 だから、皆さん、もう少し心を大きく持とうではないか。

 放言を笑って聞くだけの度量のある社会にしようではないか。一見、無茶苦茶な意見に聞こえる「放言」であっても、そこには一分の真実と魂があるはずだ。

百田尚樹『大放言』「はじめに」より 

 
まったくもって、その通りである。今の日本社会は、言論や「ことば」に対して神経質になりすぎではないか。過度に、誰かに配慮しなければならない、表現に注意しなければならない、と考えすぎではないか。そのせいで、言いたいことも言えない社会になっているのではないか。そのように思えてならない。

もちろん、実社会で生活する上では、何でも言いたいことを言える訳ではない。それは分かっている。会社の上司に何でも言えますか?お店のお客さんに何でも言えますか?学校の先生に何でも言えますか?―言えるわけがない。言いたいことを何でも(そのまま)言っていては、それはそれで大変なことになってしまう。当然、ことばを選ぶこと、あえて口に出さないこと、いろいろあるだろう。いくら「息苦しい」とは言っても、社会とは、人間とはそんなものである。

が、しかし…。だからこそ、私は強く言いたい。
私は、あなたの放言が聞きたい!と。
あなたの素直な思いを聞きたい!と。

世のなか、いろんな発言で物議を醸す人がいる。なかには、失言王のような人もいる。具体的には、イケダハヤトやホリエモン、武田邦彦、麻生太郎など、そうだろう。彼らは、度々おかしな発言をして、世間をザワつかせている。しかーし!よくよく聞いてみると、彼らの発言には耳を傾けるべきことが多いのだ。彼らの発言には、しばしば巧みな論理柔軟な発想、強い情熱が含まれており、我々に「あっ、そうか!」「なるほどな」といった気づきを与えてくれる。我々に、この世で生きるヒントを与えてくれる。だから私は、イケダハヤトの少し煽りすぎな発言も、ホリエモンの本音そのままの意見も、武田邦彦の科学的知見に基づく異論も、麻生太郎の失言扱いされがちな至言も、聞きたいのだ。みんな、み~んな聞きたいのだ。

それと同じように、私はあなたの考えや思いを聞きたいのだ。あなたが何を考えているか、どう思っているかを聞きたいのだ。だって、あなたには、私からは出てこないような面白い考えや思いがあるのだから。極端な話、正しいか、正しくないかなんてどうでもいい。そんな判断は後でゆっくりすればいいし、そもそも全てが正しいなんて期待していないし…。だから、変に遠慮しないで言ってほしいのだ。あなたの考えや思いを聞かせてほしいのだ。大丈夫!あなたの言いたいことは、あなたの思っている以上に、面白いことである可能性が高いのだから(別に、面白くなくとも怒りはしない)。

拙くてもいい、言葉足らずでもいい。出してほしい。遠慮するな、委縮するな、出せ!何も炎上を狙うこと(炎上マーケティング)はないが、過度に炎上を恐れることもない。あなたが真摯な姿勢をもって発信すれば、多くの人は理解してくれるはずだ(たま~に、理解しない人もいるが。それは気にしなくていい)。

ましてや、本ブログのような私的なメディアで遠慮するなんて、委縮するなんて、一体何を考えているのだ。
ブログで言いたいことを言わないで、どこで言うんだよ!
ほかに、どこで言うんだよ!
そう思いません?少なくとも、私はそう思って書いている。はてなブログの皆さんも、他のブログの皆さんも、twitterの皆さんも、言いたいことはどんどん、どんどん言ってほしい。引っ込めないで、どんどん、どんどんぶちまけてほしい。だって…、その“言いたいこと”こそが、聞きたいことなのだから。その部分こそが、面白いことなのだから。
引っ込めるなんて、もったいないよ!

といったところで、今回はこのへんで…。それでは、また。

(参考文献)